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ネジの歴史

ネジの歴史

ネジはもともとマイナスしかなく、ねじを発明したのはプラトンの友人で、ターレスの名士アルキタス(Archytas: 428 BC - 350 BC)とされます。時代は紀元前400年前後。ねじの持つ、ものを繋ぎ合わせる能力、水を汲み上げる能力(水ねじ)に最初に気づいたのは、後世のアルキメデス(Archimedes: 287 BC - 212 BC)たちでした。手でカットしたねじを最初に開発したのはローマ人です。使った素材は銅、銀。初期の頃はオリーブオイル絞り、運河灌漑、船底の汚水排水といったものに、あらゆるサイズのねじが使われました。 もちろん、ものを繋ぎ合わせる用途でも使われていました。しかし初期のねじはいかんせん全部ハンドメードだったので、ねじ山が正確なことも滅多になくて、職人の好みで寸法もまちまちでした。それを変えたのが16世紀半ば、ネジ切り旋盤を発明したフランスの宮中数学者ジャック・ベッソン(Jaques Besson)です。しかし普及したのはそのまた100年後。1797年に今の実用的なねじ切り旋盤を実現したイギリス人のヘンリー・モーズリー(Henry Maudsley)の出現を待たなければなりません。一介の鍛冶師として頭角を現し「工作機械の父」と呼ばれるまでになったモーズリーの発明のお陰で、ねじ山もものすごく正確に削れるようになったのですね。 

なぜねじは右回りなの?ねじの歴史 : ギズモード・ジャパン

 

1543年(天文12年)ポルトガル人が種子島に漂着し、2挺の火縄銃を領主の種子島時堯が買い入れました。この火縄銃に(図)の様な「尾栓のねじ」が使われていることが、初めて判りました。この尾栓のねじは銃身の端末側に使われています。
この戦国時代が日本における「ねじ」の黎明期にあたります。
各地の戦国大名が天下統一を目指して、火縄銃の需要が高まった時期でもあり、当時の刀鍛冶の職人達の多くが鉄砲鍛冶へと商売替えを行います。当時の鉄砲鍛冶の職人達は大阪の堺にコミュニティーを形成するようになりました。
現在でも都道府県別の「ねじ」の流通量が最も多いのが、ダントツの1位で大阪府です。「ねじ」に関しては様々な得意分野のメーカーが列挙しており、商社は顧客の要求に応じて各種ボルト・ナット・タッピンねじに至るまで「ねじ」のデパートの激戦区となっています。「ねじ」に関わる人々の層の厚さは戦国時代の名残だと思うと歴史のロマンを感じますね。ちなみに愛知県が2位、千葉県が3位です。しかし、天下統一が成され江戸時代になると世は天下泰平となり、火縄銃の需要は無くなってしまいます。江戸時代は徳川幕府による鎖国政策が250年以上続くことになります。日本の「ねじ」の歴史においては停滞期となってしまいます。この間にヨーロッパでは「ねじ」は飛躍的な進歩を遂げることになります。

ねじの歴史2|ねじの基礎知識講座|ねじJAPAN

 

 

ただ、ねじのサイズとねじ山の仕様にはまだ統一基準はありませんでした。これを解決したのがモーズリーの工場で働いて修行したジョセフ・ホイットワース(Joseph Whitworth:1803 - 1887)准男爵です。氏は1841年にねじ統一規格を提唱する論文をイギリス土木学会に発表しました。提言の内容はシンプルです。
1. ねじ山の角度は55度で統一 2. ねじ山は1インチあたりの山数を統一(但しねじ直径に応じて山数は変える)

まあ、この頃には「右巻きでねじは締まる」という法則は既に定着していたようですけどね。どうして右巻きなのか? 世の中の大多数の人は右利きで(70% - 90%)、右利きの人は時計回りに回す(回外)方が力が入るから、というのが定説です。ともあれホイットワースのアイディアは大好評でたちまち世界初の国内ねじ統一規格誕生と相成ります。俗に「ウィットねじ(British Standard Whitworth: BSW)」と呼ばれる規格(ウィットねじなんだから人名もウィットウォースで統一した方が本当はいいんでしょうけどね)。こうして谷底が丸くて、ギザギザのピラミッド型に山が入るねじが、1860年代までにイギリス全土から、遠くはアメリカ、カナダでも採用されたのです。しかしながらウィットねじは「3種類の切削と2種類の旋盤がないと作れない」ため、製造は容易ではありませんでした。このウィットねじ(BSW)よりもっとラクに製造できる規格はないものか、と考えた男がいました。アメリカ人のウィリアム・セラーズ(William Sellers:1824-1905)です。1864年に氏が発明したのは、谷底も平らなら、山も平らなねじ山規格です。たったそれだけの違いなのに、これなら「1種類の切削と1種類の旋盤だけ」あれば作れます。早く安く簡単に製造できるセラーズねじは米国で人気を呼び、鉄道会社の規格にも採用されます(うち2社はちょうど大陸横断鉄道を建設中だったことも普及を加速した)。英国はしばらくウィットねじで留まってました。それでも無問題だったんですが、そのうち第2次世界対戦が勃発し、イギリス、カナダ、アメリカの軍が共同で機械と部品を出し合う流れになって、やっぱり規格がふたつではマズいということになりました。そこで1949年、3国で話し合って統一することで合意したのが「ユニファイ規格ねじ(Unified Thread Standard)」、インチねじで山の角度60度のねじ規格です。やがて英国は1960年メートル法を導入し、国際単位系(International System of Units:SI)に移行、これに合わせてISO(国際標準化機構)が1958年に制定した三角ねじ山形「ISOメートルねじ規格」を採用します。これも山の角度は60度です。現在、世界では右回りのメートルねじが標準です。まあ、アメリカでは未だにねじの約60%はユニファイ規格のインチねじのまんまですけどね。

なぜねじは右回りなの?ねじの歴史 : ギズモード・ジャパン

 

プラスネジは1935年、アメリカのヘンリー・F・フィリップスという技術者によって発明されました。 「-」と「+」。とてもシンプルな発想に思えますが、意外にも、彼が発明するまで誰も「+」のネジを思いつかなかったのです。彼はマイナスネジを締める時にドライバーが滑ったり、ネジの溝が潰れたりして、そのたびに腹を立てていました。なんとかならないだろうかと考えていたある日、彼はひらめきます。 「ネジの頭をプラスにすればうまくいくはずだ!」 彼はさっそく行動に移し、1935年に特許を取得しました。彼の思った通り、プラスネジはドライバーが滑らずしっかりと締め付けられると評判になり、世界中に広まっていったのでした。開発者にちなんで、今でもプラスネジのことを英語で「フィリップス・スクリュー」といったりします。 ホンダの創業者、本田宗一郎がヨーロッパ視察に行った際、工場でプラスネジを使ったオートバイのライン生産に驚き、まだマイナスネジが主流の日本に持ち帰って本格的にプラスネジを使い始めたという逸話もあります。
ということはつまり、それ以前に生産された家具や小物などは全て「マイナスネジ」が使われているのです。 

アンティークのネジ 〜プラスネジとマイナスネジ〜